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カンボジアのプノンペンでコショウを売っている人がいる―。現地でそんな噂を聞き、お店を訪れてインタビューにお答えいただいた倉田浩伸氏。学生時代からカンボジアにNGOのボランティアとして訪れていた倉田氏は「カンボジアに産業を構築したい」と思うようになり、何年もの試行錯誤の末、「カンボジアのコショウは世界一」と言えるまでに製品を成長させた。
なぜ、ここまで強い思いを持ってカンボジアの産業構築に挑んだのか。どのような思考錯誤を経て、コショウに行き着いたのか。カンボジアに関心を持つようになった中学校時代から、現在までのお話を聞いた。
文/小堤 音彦 取材/2008年11月25日

■プロフィール
1969年10月24日生。三重県出身。亜細亜大学経済学部経済学科卒業。1992年8月NGO「JIRAC」の隊員として初めてカンボジアへ入る。1994年プノンペンに調査事務所を設立。1997年胡椒農園創業。同年カンボジア現地法人格取得。2003年胡椒専門店「KURATA PEPPER」開店。現在に至る。
――まず、倉田さんはいつカンボジアに来られたのでしょうか?
1992年8月、大学4年生の時の夏休みに、NGOのボランティアとして来ました。JHP・学校をつくる会の前身である日本国際救援行動委員会(通称JIRAC)というNGOです。そこの理事の一人に、当時亜細亜大学の学長がいて、彼が参加者を募集していたので参加してみました。
――なぜ、参加してみようと思ったのですか。
91年8月に湾岸戦争勃発後に、日本には「お金だけでなく人的貢献をしよう」という話がありました。ちょうど私もアメリカに語学研修に行っており、そこで同じ寮の仲間に、「有事の際は、日本人は金を出していればいいのだから、いいよな」と言われ、私も人的な貢献をしようという強い思いがありました。
そして、イラクから逃れてきたクルド難民を救援しようと、サポートする救援活動を行ったのですが、トルコ政府は仲が悪いので、「難民はいない。救援活動に来てもらっても困る」ということで、追い出されてしまいました。しかし、せっかく集まったのだから、何かやりたいと皆考えていました。ちょうどその年の10月にカンボジア和平協定がパリで締結されたので、12月に小山内代表が難民キャンプに入って、翌年8月から帰還民救援活動を行おうという形になりました。
――そもそも、カンボジアに関心を持ったきっかけはあるのですか?
中学校の世界史の教科書に、ピューリッツァー賞を受賞した沢田教一氏の川を渡る家族の写真を見て、このようなことを伝えていることに感動を覚えました。ベトナム戦争を主題にした映画が数多く上映されていて、その中のひとつとして1984年に「キリングフィールド」という映画を見ました。しかし、これはベトナムではなくカンボジアの映画で「戦争ではなく、一体これは何だ?」と理解ができず、なぜ虐殺を行ったのか、本を読んで勉強していくようになりました。当時はあまり本が出ていなくて、図書館に行ってはそういう本を探していました。
――学生時代にカンボジアに行って、どのような支援活動をされていたのですか?
帰還難民が93年の総選挙に向けて、帰還させようということになっていましたが、まだ定住できる場所がありませんでした。毎日、1,000人近くの人が出入りする収容センターで、できあがった書類タイピングしたり、炊事場の野菜を切ったり、荷物を積み下ろしたりしていました。ポル・ポト時代に、首都プノンペンに住んでいた人は、全員出て行かされましたからね。その2か月をカンボジアで経験し、12月にもう一度出直してきて年越しまでいて、1月に1回卒論を出すために帰りました。結局却下されましたが(笑)。
――通常であれば、大学4年生の1月というと就職先は決まっていると思いますが?
私は、日本の普通の企業に就職する気はありませんでした。カンボジア現地の企業から内定をもらったのですが、親の同意が得られず断念しました。そして、2月に収容センターが閉まるということで、また1人で現地へ行きました。最後は、帰還難民は100人くらいしかおらず、ひっそりとしていました。そして予定通り2月に閉鎖され、5月に選挙が行われました。私はそのまま約1年ほどNGOで働き、94年1月末に日本に帰って、警備会社に就職しました。それでも、月に1週間はカンボジアへ行き、「カンボジアで、どんな産業ができるだろうか」と、調査をはじめました。
――なぜ、ビジネスの機会を探していたのですか?
なぜかというと、帰還民の収容作業をやっているときに、現地の方から、「カンボジアには産業が無い。今後の生活が不安だ」という声を聞いていました。私は、この話を聞き、何とかして産業を構築しなければならないと考えていました。しかし、産業を構築すると言っても、工業化すれば諸外国の価格競争に巻き込まれてしまいます。そこで、カンボジアにある特産品を販売すれば、競争優位を保つことができると考え農業に着目しました。
そこで、着目したのがドリアンとヤシの実で、日本に輸入して販売してみましたが、結局2つとも失敗しました。当時は輸入するにもお金がないので、普通の飛行機に積み込んでいました。しかし、他のお客さんからドリアンが臭いというクレームを受けて、輸出が禁止になってしまいました(笑)。さらにヤシの実は、他の荷物の重みで破裂して水浸しになってしまったことも(笑)。そこで、青果物ではなく乾物にしようと考えました。
そんなときに、たまたま私の母の叔父に会う機会がありました。「カンボジアで何かやろうとしているらしいな。面白いデータをやる」と言われて、なんとカンボジアの60年代の農産品輸出データをもらったんです。そのデータを見ると、米や木材、天然ゴム、コショウ、大豆などが輸出品目として書いてありました。しかし、米は日本で規制があるし、材木はポル・ポト派の武器購入資金になるため伐採禁止になるとささやかれていた。天然ゴムは加工が必要なため難しい。大豆は日本で売っても、使い道がない。しかし、コショウなら加工せず、すぐに使えるということ注目しました。
しかし、実際に日本に戻ってコショウの話をしてみると「カンボジアのコショウ!?安いなら買うよ!」と言われてしまいました。カンボジアはイメージが悪く、日本は不況の最中だったので、なかなか売れませんでした。今考えると、あの時売れなかったから今があるのですけどね。
――どうしてそこまで頑張ることができたのですか?
カンボジアのコショウは、本当に質がいいんです。だから、これは何とかならないのかと、ずっと考えていたんです。現地ではいろいろ怪しい人もいましたが、中には「一緒にやろう」と言ってくれる人がいて、97年に1ヘクタールの土地を借りてコショウ農園を作りました。そこで、土地代と当面の活動資金として日本の銀行から300万借り、アンコールワットなどの観光ツアーで稼いで運営していました。しかし、日本では、2人スタッフを雇って人件費などに月100万もかけたにもかかわらず、全く売れませんでした。さらに、現地では突然スタッフがパソコンを持って行ってしまうという出来事もあました。私は疲れきってしまい、「もう何もかもやめてしまおう」と、99年に店をたたみ、畑だけが残りました。ただ、畑では収穫自体はできてきていました。
そんな時、転機となったのが、2001年に秋篠宮ご夫妻にお会いしたことでした。外務省が主催していたカンボジアでのパーティーで、コショウのお話をさせていただきました。その後、紀子様からコショウをお土産としていただきたいとおっしゃっていただきました。そこで、お土産として大慌てでコショウを包んで差し上げたところ、「美味しかったです。また注文させてください」とお手紙をいただきました。こうやって天皇家の方が認めてくださったというのが、自信につながりました。
その後、2003年に結婚しましたが、妻の一言で、販売の形態をカンボジア国内に絞ることにしました。今まではいかに輸出するかとか、代理店として売るかばかり考えていました。カンボジアにはたくさん外国人がいて、この人たちにコショウを売ろうと。カンボジアに住む100万の外国人のうち1%でもくれば、1万人も来る計算になります。
――奥さんの一言が転機となったと。
「海外で安く買い叩かれるより、自分で値段を決めてこっちで売ればいいじゃないの」ということを言われて、「ああ、そうか!」と感じました。そして、パッケージも大事だと考えるようになりました。欲しいと思ってくれるようなものにしないといけません。そのうちテレビで紹介されたり、「地球の歩き方」でも紹介されたりして、口コミで広まって、大使館の方も買いに来てくれるようになりました。これは、発想の転換でした。売りに行くとたたかれるが、買いに来てくれるとこっちの値段で売ることができる。1年、2年、3年と、だんだん調子がよくなっていきました。
――KURATA PEPPERには、どんなところに工夫が?
青果物というのは地域・気候にあっているから育ちがよい。育ちがよいとおいしいんです。無理やり誰かが持ってきた果実を、そこで育てたものはあまりおいしくない。まずは、自然に作っている状況の中で一番うまいものであることが大切です。その中で、栽培方法をオーガニックにするなどの工夫をしています。
また、コショウを3種類に分けるのは世界どこでもやっていません。普通は、熟していないコショウを使っています。完熟コショウというのは赤くなっています。だから、房でとれず、一つひとつ実を取るという手間をかけています。さらに、コショウを収穫して、良いものだけを選別しなおしています。普通のコショウはいろいろな形のものがまざっています。このような点がこだわりですね。ちなみに、この袋も現地のものを使っています。できるだけ、現地のものを使って作ろうとしています。
――今後はどのように広めていくつもりですか?
最近は、石鹸を作る新しい試みをしていますが、大きく広げていくというよりも、自分たちが生活できる程度であればいいと思っています。
私たちは、カンボジアでの産業づくりのけん引役になれればいいと考えています。カンボジアのコショウがおいしいんだということが世界中に広まって、私たちが成功事例となって、現地の方々がアクションを起こすきっかけづくりになればいいと考えています。
2月からは日本人・JICA・企業・外務省・NGO、みんなが持っている知識と経験を集めたいということで、勉強会を開始したり、若い人への起業家セミナーをやったりしています。自分だけが良ければいいというわけではないですけど、まず自分が成功事例になって、カンボジアの若い人に「自分たちでもできるかも」と思ってもらえればいいと考えています。
――これからもカンボジアにずっといる予定ですか?
いえ。そんなことはありません。日本に帰りたいですよ(笑)。でも、カンボジアが発展して、カンボジアの方に「もうお前はいらない」といわれるようになる必要はありますね。そのために、もっとがんばる必要はありますね。
――ありがとうございました!
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